財閥の歴史

財閥の歴史

財閥とは、一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態のことを指すそうですが、今回は3大財閥と呼ばれる財閥(三菱、三井、住友)の歴史をご紹介します。

政商から発展した三菱財閥

土佐藩出身の海援隊の会計役であった岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、明治政府の保護も得て海運業を独占。その後、造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出したという歴史を持ちます。

三菱は岩崎弥太郎が明治期の動乱に政商(政治家や官僚との癒着により、優位に事業を進めた事業家)として、巨万の利益を得てその礎を築きました。

最初に岩崎弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ました。

この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であると言われておりますが、岩崎弥太郎は最初から、政商として暗躍していたのですね。

九十九商会から出発し経営の多角化へ

九十九商会として海運事業を開業、岩崎弥太郎がその経営・監督の任に当たりました。

その後、鉱業、造船を中心に海から陸へ事業展開を図り、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎました。特に造船業は三菱財閥の中核を成すようになり、 それが現在の三菱重工へとつながっています。

また、三菱財閥の前身である海援隊の関係者の多くが、後に政治家になったため、三菱財閥は発足当初から政界との太いパイプを持っていました。

更に、元々海援隊はイギリスから武器を輸入し、 薩摩や長州に卸す商いをしていたので、三菱財閥は日本の軍事産業を独占的に担うようになり、現在でも三菱重工は、自衛隊への納入実績第一位の企業となっています。

三菱地所の賃貸不動産の含み益は2兆円?

2010年より、上場企業には賃貸不動産の時価開示が義務付けられ、賃貸不動産に巨額の含み益がある企業が明らかになりました。

三菱地所は、なんと2兆円を超える含み益(時価と簿価(帳簿上の価格)の差額)があります。

例えば、1兆円で買った不動産の時価が、1兆5,000億円に値上がりしていたら、5,000億円の含み益になります。

三菱財閥

越後屋呉服店から始まった三井財閥

商業を元に財を築いた、三井財閥の始まりは1673年に東京の江戸本町に開店した、「越後屋」呉服店と言われています。創業者は越後の商人である三井高利という人物です。

三井高利は商才に優れ、日本で初めてチラシによる集客を行ったのはこの「越後屋」だといわれています。

また、雨が降った際には越後屋のマークが入った傘を無料で貸し出し、店の宣伝を行ったそうです。

三井財閥

呉服屋の商売が成功した次には両替商として転換していきました。

当時は、金貨、銀貨、銅貨の三種類の貨幣が使われていました。しかし、それぞれは貨幣のレートは日々変化していました。

そこで、三井高利は両替商としてそれぞれの貨幣を別の貨幣に換金する商売を行いました。

まず、三井高利が目を付けたのは幕府の公金の送金システムです。

それまでは、年貢などとして大阪に集められた莫大な現金を陸路や海路を使って、江戸まで輸送しなくてはなりませんでした。

しかし、賊に襲われたり、事故のリスクも伴い、輸送コストも高いのが難点でした。

そこで、大阪の「越後屋」にこの公金を預ければ、江戸の「越後屋」で引き出せるというシステムを作り上げました。

今でいう、銀行のようなシステムですね。当時300年以上も前にこのシステム構築し、「越後屋」は幕府の御用両替商となりました。

そして、この送金システムは一般の商取引でも利用され、江戸と大阪の商人の間で、多額の商取引が可能になりました。

江戸時代のファッション文化と経済を発展させた 「越後屋」は呉服商を受け継ぐ三越伊勢丹、両替商を受け継ぐ三井住友銀行として人々の生活に密着しています。

三井財閥

ロスチャイルド財閥を超える世界最古の財閥と言われる住友財閥

住友財閥は世界最大の財閥であるロスチャイルド財閥より古い、世界最古の財閥と言われています。

今から400年以上前の室町時代に京都の洛中で「富士屋」という本と薬の店、そして「泉屋」という銅商を始めたのが、住友財閥始まりです。

江戸時代に入るころ、銅は当時一大輸出品であり、住友の銅精錬業は大いに栄えました。そして銅貿易に関与するようになり、その関係から糸、反物、砂糖、薬種等の輸入品を大坂・京都方面で売り捌くなど商業にも手を伸ばしました。

そこで得た利益で三井財閥同様、両替商を開業するようになりました

住友家が財を成すキッカケとなったのが、「白水」という人物との出会いでした。住友家はこの白水から、ひそかに、「南蛮吹き」という粗銅から銀を分離する精錬法を伝授されたのです。

当時の日本には、そのような精錬技術はありませんでしたので、住友家はこの「南蛮吹き」を秘伝として、代々受け継ぎ、莫大な利益を上げていきました。

世界最大の産量を誇る別子銅山の発見

長兵衛という腕利きの坑夫として知られる人物があちこちの鉱山を渡り歩き、ある時、愛媛県の新居浜で銅鉱脈らしきモノを見つけ、その事を当時既に、銅で名をはせていた住友家に報告しました。

これが後の別子銅山の発見となり、現在の住友財閥を築き上げることになりました。

長兵衛から報告を受けた住友家は、すぐさま銅山の開発に乗り出し、別子銅山は、翌年には正式に開坑します。

この別子銅山は1973年に閉山されるまで、282年間にわたり銅を産出し続け、一貫して住友が採鉱してきました。これだけの永い期間、一企業だけが採鉱し続けた鉱山は世界広しと言えども、他に例がありません。

総産出量は銅地金として75万トンにおよび、住友のドル箱となりました。

そこから商船や貿易などの多角事的事業経営に乗り出しましたが、それを支えたのは、いうまでもなく別子銅山の経営でした。

住友財閥