総理大臣より稼いでいた25歳

総理大臣より稼いでいた25歳

何と25歳にして総理大臣よりも稼いでいた人が今から80年以上前に存在します。その方をご存知でしょうか?

正解は・・本田宗一郎です。

創業者といえば、経営者タイプを想像しがちですが、本田技研工業の創業者・本田宗一郎は生粋の技術者でした。

1906年、静岡県浜松市で鍛冶屋の長男として生まれた本田宗一郎は、8歳の時に初めて目にした自動車に感銘を受け、技術者を志します。とても早いですね笑

その頃は1903年に米フォード社の設立、1906年に英ロールス・ロイス社の設立があり、まさに自動車産業の黎明期でした。

・自らの工場を18歳でオープン

高等小学校卒業後、本田宗一郎は東京・湯島の自動車修理工場に就職。彼にとっては幼少期からの念願の職であり、雑用のかたわら、先輩工員の作業を目で見て学び、暇さえあれば専門書を読み漁り、自動車に関する知識をむさぼっていたといいます。

その後現場を任されるようになるとすぐに頭角を現し始めました。そして僅か6年の勤めを終えるころには、界隈で評判の腕利き技術者になっていたといいます。そして故郷である浜松に戻って自分の工場をオープンしたのは、18歳の時になります。

25歳にして当時の総理大臣の月収を上回るように

現在の本田技研工業の前身ともいえるこの工場は、単なる修理だけでなく関連部品の製造までこなしたこともあり、引く手あまたの大繁盛でした。ほどなく、従業員50名を抱える大所帯に成長していきました。

本田宗一郎の逸話としてエンジン音を聞いただけで不良箇所を見抜いたという伝説的なスキルを持っていたというものがあります。そのためさぞかしストイックな職人であったのだろうと想像しますが、意外とそんなことはなかったそうです。

総理大臣の月給が800円だった時代に、25歳にして月収1000円以上を稼ぎ、2台の自家用車を乗り回していた本田宗一郎は、仕事を終えると夜な夜な芸者に囲まれて飲み明かす日々を送っていたといいます。

そんな豪快な夜遊びがエスカレートし、ついには酔っ払ったまま芸者を乗せて運転し、誤って車ごと天竜川に飛び込んでしまったこともあったそうです笑

・充電期間を経て本田技研工業を創業

そんな破天荒な一面もあった本田宗一郎は戦時の空襲で工場を失うと、宗一郎は商売に嫌気がさしたか、「人間休業」を宣言してしばし隠遁生活に入ってしまいます。この間は、尺八をたしなみつつのんびり暮らしていたそうなので何とものんびりしていますね。

そこから一念発起し、この休業宣言からおよそ1年後の1948年に「本田技研工業株式会社」を設立。1949年に後の副社長となる「藤沢武夫」と出会い、ホンダを世界的な大企業に育て上げてあげていくこととなりました。

また、バイクの「三ない運動」が全盛期の頃には全国のPTAから「暴走族の親玉」と呼ばれ、徹底的に激しい非難を浴びせられていましたが、「高校生から教育の名の下にバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と発言し、事態は終息に向かうこととなり、この事件を機に、全国の学校で「安全運転講習」が始められるようになったとのことです。